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2021年5月3日 - 千葉で安心の出産をするなら武田助産院

tel:047-488-0311

私の出産記

2021年5月3日

公開日:2022年07月27日(水)

 <転院から予定日まで>

 37週までは東京女子医大八千代医療センターに通っていました。超ハイリスク(cf、高血圧、妊娠糖尿病、高齢)で検査ではGBSも見つかり、医師に大変心配されました。でも、次男を妊娠中3ヵ月もの間、切迫早産で県外の大学病院に入院していた経験から二度と大学病院には行きたくありませんでした。自己決定権が自分の体のことなのに、そこには無かったからです。
 助産院には、長男の出産の時から関心がありましたが、高齢での初産だし勇気が出ませんでした。ただその時にYMCの情報は集め「いつかここで…」と夢見ていました。
 転機はイギリス留学です。コロナ禍でしたが、今回の第3子妊娠初期~後期を過ごし、NHSやミッドワイフのケアを受けるうちに、入院出産だけが選択肢でないことが示されました。ハイリスク妊婦にも自分に選択肢があるし、遠慮は不要なのです。

 私はHoomBirth(自宅出産)を希望しましたが、笑われることもなく、たしなめられることもなく、HoomBirthのMidwife Teamがその後親身にケアにあたってくれました。
 コロナの隔離政策が各国で厳しくなり、夫も実母も渡英が実現的でなくなり、私が帰国することになりました。

 帰国の後はどうするか? 里帰り出産か次男を出産した元の住居に戻るか問題でした。八千代市に実家があるため市の保健師さんにも相談しました。隔離中2週間は、どこの病院にも妊婦健診にも行けません。

 また、隔離2週間後はすでに35週となるため、新規に産院を探すのも難しいようでした。最終的に市の保健師さんのご尽力で、八千代医療センターに受け入れていただきました。

 そして並行してYMCにも出産可能かどうかを相談し、37週の転院を目指すことになりました。
 花粉症、妊娠糖尿病、途中まで妊娠高血圧の薬を服用していましたが、37週以降はストップし食事制限だけでコントロールしました。だた、美味しそうな旬の素材にスイーツ、お土産店…、予定日までのガマンと言い聞かせても、なかなか生まれそうな気配がなかったので辛かったです。
 それでも実家のありがたいサポートのおかげで37週はあっという間に訪れました。その前に一度、夫と上の子を伴って見学させてもらいました。家庭的な雰囲気と緑の多さ、静かな環境や清潔感、あたたかさがあり、迷わず転院を決めたのです。

 上の子たちは、初めからおもちゃを取り合い騒ぎましたが子どもたちも含めて変な圧力にさらされることなく、なんとか立ち会えるのではとも思えました。


 <予定日以降>

 愚痴になってしまいますが、5/3が予定日だったため、夫はGW中に新生児とのお世話生活を送れると期待していたようです。

 早々4/28には駆けつけてくれたので、5/3が過ぎると「何で生まれないの?」と問われるようになり、苦しかったです。いや、もう私が聞きたいですし、不安なのです。5/3の健診では、武田先生がこの話を聞いて下さり、励ましてもらえたので心強かったです。
 次の検診5/7も何もなくやって来てしまいました。5/5朝におしるしがあったのですが…「四つんばいになる。階段の昇り降り、拭き掃除(床)」をアドバイスされるとともに、陣痛促進のためのひまし油をもらい、夕食後に飲むように助言されました。その日は、実家の床と階段、手すりの拭き掃除をしました。
 かれこれ1か月以上、実家に滞在していながら雑巾で水拭きするのは初めてで、母に頭が下がりました。感謝を込めて拭きながら「エコー写真で胎児の顔がお腹側を向いているので反対向きになるよう、少し四つんばいになったまま腰を揺らしてみて」と助産師さんに言われた事を思い出し実施しました。
 そして夕食後、7時にひまし油を一気に飲み干しました。存外おいしかったです、香ばしくて。カモミールミルクティーを用意してありましたが、お口直しは必要ない程でした。その後、次男と入浴し早々に寝かしつけをし、そのまま寝落ちしてしまいました。

 腹痛で起きたのが夜9時半。腰も痛いと、痛みの強さや長さを確認しようとそのままの体勢でいたところ、ますます強く痛み出し、突然温かい水が垂った感覚が…。破水のようでした。しかし、便意は全く無いのです。YMCに電話をかけると、行くことになりました。

 

 <出産~入院>

 『まさかの黄色い海での出産?』そう思うと、金曜日の雨の夜ということもあってタクシーは呼ばず、妹に車を出してもらいました。眠っていた次男を連れていきました。並行して夫と連絡をとり、YMCに長男と向かってもらいます。

 YMC到着後、車中でつづいていた痛みは、陣痛とはっきりわかる強さになっていました。GBSの点滴を打ってもらいました。院長一人で切り盛りです。困ったのが次男です。胸の上に乗っていたのですが、目がランラン。

 しかし子の陣痛に加えて15㎏は重い! 今振り返ってみると、次男どうしていいのか分からなかったはず…。ごめんね。夫到着後、次男は長男と追っかけっこを始めてしまいました。点滴終了後、いったん夫と子どもたちのいる和室に戻る私。

 菅谷さんともう一方の助産師さんが駆けつけてくださいました。子犬小屋のような和室。夫は、私の腰をさする。私「フーッ、フーッ」と助産師さんに合わせ呼吸。走り回る子ども。強くなる痛み。

(なんでおとなしくできんの!)「ママ死んでもいいの?」「だって…」言ってから後悔するセリフ。
 今思えば、何が起こるか、子どもたちには何をして欲しいか、子どもにもちゃんと話しておくべきでしたし、バースプランにも盛り込めたら良かったと思います。長男は次男出産時にも立ち会っているので、大丈夫かと思ったのですが、次男くん…君やんちゃすぎ! 兄ちゃんと遊ぶ場所と勘違いしてない?
 時々おとずれる便意にトイレに行くも出ず。でも痛みと共に出ている感覚あり。
 血圧が上がる。「まずいなー」という声。私は「痛いです。」「さすってください。」「フーッ」の三語しか話せなくなっていました。次男出産時より陣痛は痛く感じました。途中「無痛分娩に」と口走ってしまいました。
 分娩室に再び戻り、子どもたちと離れた時は正直ほっとしました。ツールを抱くようにしながら意識がもうろうとし、まだ騒いでいる上の子たちの声を聞き「死ぬ時もこんなだろうか…」と想像しました。理想とまるっきり違う。

 賢い良くできた子どもたちと夫が私をいたわり、励ます中で出産…と思いましたが、でも一方で賑やかなのも悪くないなと思ったのです。時間が長く感じました。

 でも血圧が上がっているらしい。感覚として胎児が下りてきている感じがありましたが、伝える心の余裕もなく、2人の助産師さんがなにやら話しているのですが、どれも聞き取れません。どうやら救急車が呼ばれたらしい。院長先生から説明を受けました。子どもが医療センターには入れないので、再び妹に来てもらい、夫が私に付き添う算段です。サイレンが近づき子どもたち大興奮。妹も到着した模様。あとは…。
 菅谷さんが遠慮がちに「お金のことだけど…」と費用説明してくださり、急に私の中で冷静な意識が。(高っ! 病院出産しYMCに戻って来たいけど高っ!)その時スイッチが第3子に入ったようです。「運搬する前に様子を確認しておこうか…」と助産師さんが産道を確認した後、また何かを話していましたが聞き取れません。

 「ぐいぐいきてる」は胎児が下ってきている意味でしょうか?「分娩台に上がって」と聞き取れたので、台に上り院長先生からビーズクッションを差し出されました。これが気持ちよくフィット。

 これまでは陣痛時に「フーッ、フーッ」と痛みをかわすだけでしたが「力入れていいよ」の声が。産道を丸くてぬるぬるした大きなものが通ってくる感覚がありました。それなのに「力いれていい」の意味がとっさにもう分からなくなっていました。

 頭が出た感覚とそれを告げる声。最後、胴や手足の丸いかたまりが落ちてくる瞬間、やっと力を入れることができました。子どもが見えている訳ではありません。抜け落ちた、産み落とした感覚は静かです。子どもが銀のシンク台の方に運ばれていきます。処置する助産師さんの後ろ姿。少し経って赤ん坊の泣き声。まだ小さくか弱い声。声をさらに白い紙箱に入れたような響き。
 妹に聞かせたいと、まず思いました。夫はすぐそばに立っていました。子どもたちの歓声は相変わらずで、もう弟の誕生が理解できても、できなくてもどちらでもよくなりました。

 全員このYMCにいるのですから。考えていたようで考えきれていなかった理想の出産…。現実。自己決定できるようになりたいと選んだYMCでは、少なくとも出産を当事者である自分ののもとして主体的に向き合うことができました。院長はハイリスクを引き受けてくださり、救急隊員の到着後、生まれてきてくれた新しい命。

 子どもたちの世代に男性・女性にとって出産がどれほど重要な行為で、家族にとって大きな意味を持つかこれからも伝えていく努力をしないとなぁ…と思っています。
 入院中は、なんと完全母乳で過ごすことができました。間もなく退院です。夜間、乳腺炎かと思うほど乳房が腫れたときも、院長がナースコールで対応してくれ心強く続けられました。母子完全同室なので、新生児がこれほど豊かに反応し成長していく姿を舌を巻きながら眺められました。

 ちっぽけだと思っていた高齢ハイリスク妊婦の私にも可能性があったことに驚きます。その可能性を引き出してくれたYMC。貴重な経験をありがとうございます。母親となった身体としての私には、充分すぎるくらい理想の出産であったことは間違いありません。